tampen.jp主催上映会「短編アニメーションの〈いま〉を知る——特集:大内りえ子=孤独でも自由なもうひとつのキャラバン」が2019年7月27日と28日の二日間にわたり開催された。同上映会は、「短編アニメーションの〈いま〉を知る」シリーズの一環として企画され、アニメーションをたんに「みる」だけではなく「考え」「語る」きっかけとなる場をめざした。具体的には上映後のトークにて、監督自身のみならず、三人の批評家をゲストに招いて、大内監督について多角的に論じてもらった。さらに議論を深めるために、登壇した批評家たちには後日、大内監督に関するレヴューを執筆してもらうことになっている。その第二弾として、分析美学者 / 批評家の難波優輝によるレヴューを公開する。ちなみに、映像作家 / 批評家の松房子による第一弾のレヴューはこちら。これをきっかけにして、個人アニメーションについて「考え」「語る」文化がわずかでも活性化することを願う。


向こうのないわたし(たち)——大内りえ子の思索するアニメーション

難波優輝


はじめに
アニメーションの語りは多くの場合、その物語やキャラクタの関係に焦点を当てる。それは正当な語りだ。だが、じゅうぶんな語りでもない。アニメーションの語りの対象が、物語やキャラクタの関係に尽くされ、アニメーションというメディウムの特徴を見逃してしまうとしたら、それはじゅうぶんではない。ちょうど、ある歌の語りが、その歌詞のみに尽くされ、そのメロディやコードの響きやリズムが聴き逃される場合と同じように。

本稿では、大内監督作品を、キャラクタの画像の扱いから特徴づけ、アニメーションに対するひとつの思考として理解する。大内作品の表現としての価値を理解するのみならず、アニメーションという表現形式を再考するための手がかりを見出したい。アニメーションの語りの標準的なしかたからは外れていく試みである。だが、価値ある試みである。

本稿では、大内りえ子作品の物語の分析に関わらないこともないが、焦点は、アニメーションの表現形式を用いてどのようにアニメーションを思考しているのかにあてられる。「向こうのないキャラクタ」ということばを鍵として、大内作品におけるキャラクタ表現の意味とそれが提示するキャラクタ理解を分析する。キャラクタの向こう、そして、わたしやあなたの向こうについて考察を進め、キャラクタとわたしたちのあり方を思考する。


1. キャラクタと画像の約束
大内監督作品の特徴はそのキャラクタの画像とキャラクタの扱いにある。

まず、キャラクタとキャラクタの画像の一般的な理解を提示しよう。ここで、キャラクタとは、キャラクタの画像によって指し示される何らかの対象である。ちょうど、現実のひとと現実のひとの写真のように、キャラクタとキャラクタの画像とは、指し示されるものと指し示すものの関係にある。

しばしば、キャラクタの画像が描写するものとキャラクタそのものとは便宜上異なる。わたしたちがみるキャラクタのあり方と、虚構世界のなかでのキャラクタの姿はずれている*1。

たとえば、アニメーションにおいて、「かわいくない/かっこよくないキャラクタ」が存在する。しばしば、主人公は冴えないキャラクタだとされる。だが、鑑賞者から見えればどう見ても可愛らしいと感じられる。しかし、虚構世界においては、鑑賞者がみるような存在がいない、あるいは、いないことになっている、という点が一般的なアニメーションの約束となっている。鑑賞者に見えているものと虚構世界での存在とは、しばしばずれている。

大内監督作品にいて、虚構世界と鑑賞者からの見えは異なるはずであるが、その約束は揺らぐ。

私には未来がある』(二〇一六年)について、この作品の虚構世界内のキャラクタからみてどんなふうに見えているのかを考えてみよう。語り手として重要な位置を占める男の子はどんなふうにこの世界のうちでひとびとを見ているのか。

たとえば、作中に頻繁に登場する赤い紐で髪を結んだ女の子のキャラクタは無数に登場し、ほぼ同じ格好をした女の子が同じ女の子をいじめている光景が描写され、異様な光景にうつる(図1)。


図1『私には未来がある』(二〇一六年)

女の子のキャラクタの画像は鑑賞者の側からみて同一である。同一の姿をした女の子がおそらくは別の親とともに歩いたり、買い物をしている。この親たちは別々の画像として描かれており、鑑賞者の側からみて同一ではない。そこで、一般的な約束事から考えて、これらの女の子たちは異なる対象であるはずのものたちが、キャラクタの画像のうえでは同一のものとして描かれていると理解できる。

この作品は、わたしたちの鑑賞の約束事を、その約束を揺らすことで明らかにする。わたしたちが透明だと思っていたキャラクタとキャラクタの画像の関係を明らかにする。虚構世界でみられるはずの姿と、語り手がみせる姿と、そして、鑑賞者がみる姿とのずれをもたらし、鑑賞者にルールを明示化する。この明示化はより核心的な効果をもたらし、思索のための手がかりとなる。


2. キャラクタの画像が指し示すもの
大内りえ子は、キャラクタの向こう側のなさを描写し続けている。

さきに述べたように、あるひとを写した写真がそのひとを指し示すように、キャラクタの画像は虚構的にある対象を指し示す図として機能する。現実のひとを描いた似顔絵と同様に、キャラクタの絵は、キャラクタの似姿として機能する。だが、もちろん、キャラクタの画像の指し示す対象は、存在するとしても、現実に存在する人間とは異なるしかたで存在する。

だが、わたしたちは、しばしばキャラクタの画像の向こうをみる。キャラクタの画像が指し示す対象をいくばくかの実在の感触とともに想像する。

大内りえ子作品は、キャラクタの向こう側のなさを描写する。大内の作品には様々なキャラクタの画像が、ときにめまぐるしい速さで提示され消える。瞬間ごとに、鑑賞者はキャラクタの向こう側を自動的に想像する。だが、その想像はつねに不完全なかたちでしかなされえず、苛立ちを感じる。

『私には未来がある』においては、少年、その母親、父親、そして、少女の画像が提示され、運動する。少年の顔の画像は判別不能であり、少女の画像も、数回、はっきりとその顔が描写されるものの、多くの場合、その顔は見えない。少女は無数に存在し、ひとつの対象を指し示すキャラクタの画像としての機能を否定される。

キャラクタの画像たちは、それが指し示すはずの対象を指し示すことはできても、ごく弱いかたちでしかない。鑑賞者はキャラクタを立ち上げる想像の難しさを感じる。その想像を遂行するため提示されるべき情報の不完全さをつねに感じる。この苛立ちは、意図された不じゅうぶんさだ。

ツインテールの採集のように日常ですれちがったかもしれないツインテールたちの後ろ姿ふるまいを集める『偽物のあなたのための』(二〇一七年)においては、キャラクタの画像やひとまとまりの動きを超えては鑑賞者にキャラクタを立ち上げるための情報をもたらさない。

3分55秒からの次々と描写される女性のモデルの姿は、移りゆく瞬間の画像だけが提示され、その向こうを見ることは叶わない(図2)。対して、最初と最後には、車の後部座席で振動をうけ生々しい運動をするキャラクタが描かれるが、その顔はみえない。つまり、この作品において、つねに顔はあいまいであるか、つよくデフォルメされている(図3)。


図2、図3『偽物のあなたのための』(二〇一七年)

これらのキャラクタの向こうのなさは、アニメーションというメディアの特徴、キャラクタという対象の特徴を、その不完全さや機能の失敗から明らかにする。のみならず、キャラクタが似姿とする人間、わたしたちの問題へとつながってゆく*2。


3. 向こうのないわたし(たち)
大内りえ子は、自身の作品について、自身の個人的な生活と人生とを強く引きつけて語っている。『私には未来がある』について、大内は次のように述べる。

「ぼく」の生活を描いた日常系アニメ。/これは私が何年か前に描いた漫画が原作になっている。/このアニメは、自分を慰めるために描いた物語を解体していく過程でうまれた。/この作品は要素でしか成り立っていない。私自身もまた、要素でしか成り立っていない。(大内 n.d.)

大内は、作品の構造と「私自身」とを重ねている。

これはわたしの分析とどう関わるのだろうか。大内りえ子作品の個人的なメッセージやキャラクタのあり方はどう関わるのか。大内じしんのことばと作品とはどのような距離があるのか。大内じしんのことばからはじめつつ、ことばでは表しがたい作品それ自体がもつ思考を辿りたい。

作品それ自体の思考、それは、わたしたちの薄さ、わたしたちの現れの向こうのなさへの思考だ。アニメーションにおけるキャラクタの画像を用いた表現によって思考されているのは、大内がことばによって示唆する、「私」への謎と違和感だ。

わたしたちは現れとしてひとびとのあいだに交わり、ひとときことばをかわしたり触れ合ったりする。だが、その肉を切り裂いた向こうには誰かがいるわけではない。わたしたちの本質はつねに現象する。

こうしたわたしたちの向こうのなさ、わたしたちの捉えがたさの思索はそれとして深い。だが、大内作品はこれにはとどまらない。捉えられないものとしてあるはずのわたしたちが捉えられるように見える違和感の思考を提示する。キャラクタを介して、それが似せたわたしたちのあり方への疑問を問うている。

わたしたちの姿はそれ自体で鑑賞されてしまう。わたしたちの顔面のかたち、身体の形によって、わたしたちはある者を魅力と感じ、そうでないものに魅力を抱かない。

わたしたちはつねに皮膚と肉の塊としてある。わたしたちは、つねに、皮膚と肉として他のひとの前に現れ、その現れで会話し、交渉し、接触する。この皮膚と肉を超えて想像されるわたしやあなたがあるとしても、それは、つねに再編されつづける物語としてのわたしとあなただ。ひとたびその指し示しの機能の弱さが暴き出されるとき、キャラクタに向こうがないように、わたしたちの現れの向こうにも、弱くいまにもばらけそうなわたしの物語しかない。

『りえりえこのおまめ生活地獄変』(二〇一九年)は、バーチャルYouTuberやVRにおけるアバター使用の文脈において鑑賞される作品だ(図4)。

図4『りえりえこのおまめ生活地獄変』(二〇一九年)

この作品では、「りえりえこ」というバーチャルYouTuberが登場し、そのアバターの姿が日常生活を送る様子が簡素な背景とともに描写される。そして、すぐさま、キャラクタと大内じしんの姿が同時に描写され、一瞬、鑑賞者はご法度が行われていることに驚く。ふつう、バーチャルYouTuberは、そのアバターや画像を動かしているいわゆる中の人を見せることはない。

大内りえ子じしんとアバターとが並置され、両者の異同があからさまに示される。そして、両者のつながりは断ち切られる。バーチャルな動きが投影されるアバターというキャラクタの画像は、もし、大内がその姿をみせない限り、その動きや加工した声の由来である大内と重ね合わせて鑑賞されうる。だが、大内が姿を現してしまったがゆえに、その指し示しは行先を見失っている。

大内は身体を見せる。その身体はキャラクタの画像と同様、ディスプレイ上の画像のレベルにある。身体は、生身の人間の身体だが、画像として、キャラクタのレベルと同一のレベルに並べ置かれうる。大内はじしんの身体をまざまざと見せつけ、性器の模写さえ提示する。となると、大内の「身体性」が画像によって回復されるのか?そうではない。それらはキャラクタの画像と同じ画像のレベルにある。画像の向こうには大内が存在するのだが、しかし、その存在を示すはずの画像への不信がすでにじゅうぶんにもたらされている。

キャラクタには向こうがない。そして、人間の姿にも向こうがない。わたしたちには向こうがない。向こうのなさへの思考が作品を流れている。


4. 向こうのなさから思索する
ここから、第一に、キャラクタと現実の人間の表象の関係を考えることができる。性の表象のあり方についての思考する『返事をする; 繰り返す繰り返した; 消す; 特に好き特に好きじゃなくなった。』(二〇一四年)においては、包丁を下着の真ん中に突きつけられた女性が奇妙に落ち着いた表情でその動きをただ眺める。静止し、うつろな笑顔を浮かべ、極端に肥大した乳房を持ったキャラクタが何度か挿入され、その身体は切り刻まれるようにぼろぼろと落ちてゆく(図5、3分27秒〜)。

図5『返事をする; 繰り返す繰り返した; 消す; 特に好き特に好きじゃなくなった。』(二〇一四年)


そしてはじめてまばたきをし、格子状にうごめく中身がとともに、それが動いている何かであることが明かされる。挿入されるモニターが並んだ部屋でのいらだたしげなクリック音は、ポルノグラフィを検索する者の戯画のように移る。つぎつぎと映される顔のない、顔を隠した女性たちの姿は向こうのないキャラクタと同一の平面に置かれた存在のように扱われている。さいごに、さきほど崩れ落ちたキャラクタと似た瞳をしたキャラクタが風に吹かれながら、こちらをずっと眺めている。そのまなざしは鑑賞者のまなざしを問うている(図6)。


図6『返事をする; 繰り返す繰り返した; 消す; 特に好き特に好きじゃなくなった。』(二〇一四年)

わたしたちは他人にいったい何を見ているのか。他人の向こうを見ていると述べることは何を意味するのか。わたしたちは他人の現れをしかみることができないのではないか。これらの問いをこの作品とまなざしが問うている。

第二に、向こうをまなざそうとする作品として『カーテンカーテンカーテン』(二〇一四年)を鑑賞したい。

何もない日常の中に、隠された何かがあるのかもしれない。窓の奥、カーテンの向こう側。/自分の中にある、日常を過ごす中で感じる孤独と、何かに脅かされているような雰囲気を映像的に表現した。/その感覚を、腕をつめでひっかく自分のクセと、カーテンを用いて例えた。/静かな動きと激しい動きを用いることで、自分自身をコントロール出来るときと出来ないときの差や、感覚の変化と乖離、不安定な感触などを表した。(大内 n.d.)

わたしという存在の向こうのなさを感じつつ、その向こうに隠された何かを探す。それは、恐怖に似た希望だ。カーテンはひらめくだけで、何を指し示すわけでもない。ここでの向こう側は、しかし、わたしたちの姿の向こうのなさとはことなるレベルにあるように思える。

第三に、『私を管理して、もしくはしないで。』(二〇一五年)を向こうのなさから考えてみたい。

普遍的に存在する風景を題材としたアニメーション作品。/生活上の「コントロールする/される感覚」を出発点に、自分の作品をコントロールしたいという意識はどこから来るのか模索した。/そのため、この作品ではパスツールを用いたアニメーションや、AfterEffectsのマスク機能を用いたマスクアニメーションなど、パソコン内で自動的にコマ間の動画を補完する=自分ではコントロールできない部分が生まれる表現を取り入れた。(大内 n.d.)

管理をキーワードに、わたしを管理することのできる何かを期待しつつ、しかし、わたし自身がわたしを管理することもできない。何か上位の存在を期待しつつ、その存在を感じることはできない。むしろ、機械の自動によって散文的にしか管理されえないという分析。描かれるキャラクタの画像たちはやはり断片的で、しかも、おそらくは、動画補完技術によって自動的に生成されている。その生成は、ますますキャラクタの画像が何かを指し示す機能を弱め、それによって、キャラクタという対象の不完全さ、画像がキャラクタを指し示しうるはず、というわたしたちの理解を成功させないかたちで浮き彫りにする。


おわりに
本稿では、キャラクタの描かれ方の特徴に焦点をあてた。第一に、キャラクタとキャラクタの画像の一般的な関係を考え、それが大内作品においてどのように破られているのかをみた。第二に、その破られを分析し、キャラクタの画像が指し示すはずのキャラクタの確固たるあり方が大内作品においては問われ、指し示しそれ自体の機能の不完全さや危うさが問われていることが確認される。第三に、キャラクタの画像の向こうのキャラクタの存在の希薄さと、指し示しそれ自体の機能の不完全さとは、キャラクタのみならず、キャラクタが似姿とした人間、わたしたちに対しても問われうる可能性を大内作品が提示していると議論した。第四に、向こうのなさという観点から、大内作品が提示する思索を分析した。

大内作品は、キャラクタとその画像の関係を画像と映像、音響の総体としてのアニメーションという表現形式を介して思考する。その思考は、キャラクタを介したわたし、わたしたちじしんの思考へとつながる。アニメーションを分析し、語ることが、わたしたちを分析し、語ることになりうる。大内作品は物語そのものによってわたしたちを問うというより、アニメーションという表現形式それ自体を用いてわたしたちを問う。キャラクタの画像というメディウムを用いて、大内りえ子は、アニメーション、キャラクタ、わたしたちの関係を思索する。この点に、大内作品が可能性として示す。別のしかたでの思考をわたしは見出す。

以上が大内りえ子作品との実りある議論であればうれしい。わたしはアニメーションをつくれないが、文章を書ける。アニメーションと文章とが、言語的で非言語的な対話をつくりだせればと思う。


*1 
この点に関係する議論として、高田(2014-2015; 2016)、シノハラ(2016)、松永(2016)が挙げられる。
*2 
キャラクタの向こうのなさはキャラクタの画像が標準的な統合性を失い、壊れたときに独特な対象を表象しはじめる現象と深く関わっている。こうした現象については、難波(2019a; 2019b)を参照せよ。


参考文献
大内りえ子. n.d. 「映像作品」、<https://www.riekouchi.com>. (2019年8月14日閲覧)
シノハラユウキ. 2016. 『フィクションは重なり合う分析美学からアニメ評論へ』、logical
cypher books.
高田敦史. 2014-2015. 「図像的フィクショナルキャラクターの問題」Contemporary and Applied Philosophy, 6, 16-36. <https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/226263>.(2019年8月14日閲覧)
––––. 2016. 「「キャラクタは重なり合う」は重なり合う」『うつし世はゆめ/夜のゆめもゆめ』、<http://at-akada.hatenablog.com/entry/2016/10/22/213559>. (2019年8月14日閲覧)
難波優輝. 2019a. 「バーチャルYouTuberの三つの壊れ––––設定、身体、画像」、ヱクリヲweb、<http://ecrito.fever.jp/20190722211435>.(2019年8月14日閲覧)
––––. 2019b. 「約束のない壊れ––––「キャラジェクト」の向こうで」『アニクリ』 vol. 3.5、アニメクリティーク編集部.
松永伸司. 2016. 「キャラクタは重なり合う」『フィルカル』1 (2), 76-111.

フィルモ / アニモグラフィ
大内りえ子. 2014. 『返事をする; 繰り返す繰り返した; 消す; 特に好き特に好きじゃなくなった。』.
––––. 2014. 『カーテンカーテンカーテン』.
––––. 2015. 『私を管理して、もしくはしないで。』.
––––. 2016. 『私には未来がある』.
––––. 2017. 『偽物のあなたのための』.
––––. 2019. 『りえりえこのおまめ生活地獄変』.