Part 2では、水江監督が「物語」を意識するきっかけとなった経験について語ってもらった。では最新作『DREAMLAND』は、私たちにどのような「物語」を語りかけているのだろうか。そこには、水江監督の哲学と「抽象アニメーション」の可能性が横たわっていた。
ーーここからは『DREAMLAND』について、より詳しくうかがわせてください。先ほどちらりとお話にでましたが、『DREAMLAND』では冒頭と末尾に文章が挿入されています。それぞれ、架空の挨拶文と『創世記』から「バベルの塔」の一節を引用したものです。まずは、架空の挨拶文についてですが……。
水江 あれは、ディズニーランドが開園するときにウォルト・ディズニーがおこなった挨拶をアレンジしたものです。
ーーあっ、ディズニーランド開園の挨拶なんですね。
水江 はい。「ドリームランド」の部分を「ディズニーランド」に換えればそのままです。あとは、日付も違います。
「ご挨拶– ドリームランドは永遠に完成しない。世界に想像力がある限り、成長し続けるだろう。――1963年10月26日」(『DREAMLAND』冒頭より)
ーー『DREAMLAND』は、「EPCOT(実験的未来都市 Experimental Prototype Community of Tomorrow)」構想(ウォルトがおこなっていた理想都市計画。ウォルトの没後、計画続行が困難になり頓挫)から着想を得た、というようなお話を以前、口述されていたと思うのですが。
水江 そのとおりです。アメリカ人にとってディズニーランドってなんなのかと考えてみたときに、ありえたかもしれない並行世界のアメリカ史、みたいなものかもしれないと思ったんです。(ディズニーランドは)じっさいにかつてのアメリカの街並みを再現していたりするわけじゃないですか。「ありえたかもしれない理想のアメリカ」みたいなものなんじゃないかなと。『DREAMLAND』を制作する前にディズニーのドキュメンタリーを観たのですがそのなかで、ウォルトが友人から「大統領に立候補してはどうか? きみならなれるよ」と言われたというエピソードがあったんですね。それにたいしてウォルトは、「自分がなぜ、大統領に立候補しなければならないのか? 自分はすでに、ディズニーランドをつくったのに」というような応答をしているんです。つまり、ウォルトはおそらく、政治によって現実のシステムを変えていくのではなく、ディズニーランドの体験をとおして、お客さんの価値観をアップデートしていこうとしていたと思うんです。ディズニーランドの体験をとおしてある種、「理想の世界とはこういうものですよ」と啓蒙をしようとしていたのではないかなと。そして、(ウォルトは)ディズニーランドの世界観をどんどん拡張していって、むしろ現実世界のほうを(理想の世界で)塗り替えてしまいたかったのかもしれない。それこそが「EPCOT」構想だったのではないかなと。そういうイマジネーションからは、影響を受けていると思います。
ーー先ほど日付のお話がでましたが、1963年10月26日は、日本が初めて原子力発電に成功した日です。それを記念して10月26日は「原子力の日」に制定されています。念のため確認したいのですが、もちろん意識していたのですよね。
水江 はい。意識していました
ーーなぜ確認させていただいたかというと、『DREAMLAND』からは、原発問題にたいする強烈なメッセージが読み取れると思うんです。前半は、メカニカルな幾何学図形が美しく調和しています。ところが後半は暗転を挟んで、まるで瓦礫のような混沌とした映像が展開していきます。音楽も不穏になっていますよね。その映像から私は、福島第一原子力発電所事故を連想しました。最後には「バベルの塔」からの引用がありますが、「バベルの塔」には、人類の科学技術への過信を神が戒めるという解釈もあります。やはり原発問題については意識していたのでしょうか。
水江 はい。たしかに意識しました。というよりも、作家は誰しも「3.11」以降、震災や原発問題といかに向き合って創作していくか、ということを考えなければならなかったと思うんですね。
僕の場合、自分は原発に反対なのかどうか、もうよくわからなくなってしまっているんです。いまはなんでもかんでも、賛成か反対の二項対立構図で語られてしまいますよね。ただ僕は、それには違和感があって。ひたすらジレンマのなかで創作していましたね。もちろん、原発に頼らなくても済むのであれば、それが理想だと思います。ただ、いまの社会から原発を排除することが、じっさいに可能なのかどうかはわからない。人類が足並みを揃えて、原子力によって生じる利益を手放す決断を下せるのかどうかわからないですよね。ちょっと話は変わりますが、(日本の)原発の歴史を調べてみると、(日本が)すごくあせっていたのがわかります。日本は太平洋戦争敗戦後、連合国から原子力の研究を禁止されてしまいます。しかし、日本が原子力の研究を禁止されているあいだも、外国はどんどん(原子力の研究を)進めている。サンフランシスコ講和条約が締結されて原子力研究がようやく再開されると、いままでの遅れを取り戻さなければならない、というような流れにどうやらなったようなんですね。そうした状況のなか、日本の原発政策は前のめりに進められた。もちろん「慎重に研究していくべきだ」というひとたちもいましたが、他方で「一刻もはやく商用利用したい」というひとたちもいて。慎重派と急進派が衝突していたようなんですね。ビキニ環礁で第五福竜丸の被曝事故があったときにはやはり、世論は反原発に傾いたようなんです。ところが、外国が新エネルギーによって発展していくのを横目に、日本でも(原発)歓迎ムードが高まっていく。60年代にはおおむね、(原発は)歓迎されているようなんです。『鉄腕アトム』なんかはまさに象徴的ですよね。70年代にオイルショックがあってますます、原発の必要性が叫ばれるようになった。もちろん、安全性の観点から反対運動もありました。どこの自治体も原発を受け入れたくない。そこで原発を受け入れてくれる自治体にたいして、補助金をだす法律をつくるわけです。すると、いまの原発政策の問題と同じ構造ですよね。過疎地域に(原発を)誘致して、原発がないと自治体の経済が立ちいかないという状態をつくりだしてしまう。こういう長い歴史をいまさら、すべて捨て去って立ち返る決断を下せるのか。僕にはわからないんです。
ーーいまのお話もすごく「バベルの塔」的ですね。塔が頂点に到達すると崩壊して最初から建造をやりなおすというのが、「バベルの塔」の基本原理です。塔は文明や智慧あるいは、罪業を象徴しているとも言われています。
水江 そういうグランド・リセットみたいな構造は、聖書を読んでいるとよくでてくるんですよね。「ノアの箱舟」とかもそうですよね。そういう円環構造みたいなのは、普遍的な主題だと思うんです。『DREAMLAND』にかんしても、不穏な終わりかたではあるんだけれども、最後には混沌とした瓦礫のなかから再び立ち上がってくるようなかすかな希望をしめしたかった。
ーーちなみに「バベルの塔」は、企画の段階から念頭にあったのでしょうか。
水江 そうです。じっさいに一節を引用するかどうかは最後まで悩みましたが、最初からモティーフとしてありました。全景がみえるカットでひときわ大きな建築物のようなものが映ったと思うのですが、あれが「バベルの塔」やテーマパークのランドマークを象徴しています。作品の土台にまず、「バベルの塔」のような神話的な構造があって、そのうえに荒廃したテーマパークに代表されるような打ち捨てられた文明というモティーフが乗っかっている。そして、いちばん表面に、自分がいま直面しているアクチュアルな問題として原発のモティーフが現れている、というかんじでしょうかね。
ーー他方で、有機的な作品を生命讃美とするならば、『DREAMLAND』には機械賛美のような印象をもったんですね。科学技術を過信することへの警鐘という観点ならばそれこそ、有機的なイメージを使ってエコロジーを前面に押しだす、という方法がすぐに思い浮かびます。ところが『DREAMLAND』は、そうなっていない。幾何学図形が機械文明を象徴していることは、水江監督ご自身がお認めになったところではありますが、最後まで機械たちを祝祭しているように思えたんです。
水江 そうですね。描いてる対象にたいしてはやはり、すごく愛着をもっていますよね。
ーーそこがとてもアイロニカルだと思ったんですね。というのも『DREAMLAND』には、人間がいっさい登場しないじゃないですか。つまり、機械たちが美しいものとして存在できるのは、人間たちが与えた役割から解放された、すなわち人間たちが滅びたあとの世界だけである、というようなイマジネーションが喚起されたんですね。だから夢ですよね。私たち人間は、機械が純粋に美しくある世界には存在できない。そういう世界観に思えたんですね。だからアイロニカルだなと。つまり機械たちが、人間の営みを超越したものとして描かれているように思ったんです。「ポストヒューマン」や「ポストアポカリプス」と呼ばれるジャンルと、想像力を共有しているように思いました。
水江 先ほどもお話ししましたが、人間がつくりだしたものって機械にしろシステムにしろ、(つくりだした時代の)人間たちがいなくなったあともずっと、残りつづけるわけじゃないですか。人間とは生きてる時間が違うというか、スケール感がぜんぜん違うんですよね。そういう超越的な存在として、人工物については考えています。ここで言う「人工物」とは、物理的に残るものだけではないですよ。だからありきたりかもしれないけれど、そこに人間的な意味での善悪があるとすればやはり、人間の問題であると思うんです。私たち人間が責任を引き受けなければならない。
ーー宮崎駿監督の『風立ちぬ』(2013年)にも通底すると思ったんです。『風立ちぬ』の主人公は、飛行機の美しさに惚れこんで戦闘機開発に従事します。主人公は純粋な美しさを追求して飛行機をつくっているのだけれど、じっさいは兵器として大勢の人間の命を奪うわけですよね。もちろん、それを主人公も重々承知していて。そこに葛藤があるじゃないですか。
水江 『風立ちぬ』と言われたのははじめてだけれど(笑)、たしかに葛藤はありますよね。先ほどもお話ししましたが制作していた当時は––いまもそうだと思うけれど––なんでも二項対立構図で語られてしまう状態だったと思うんです。僕はそれにすごく違和感があって。人類が抱えている問題ってあたりまえだけれど、そんなに単純ではないわけじゃないですか。もっと言ってしまえばなんだって、大なり小なりそうだと思うんです。たとえば自分の本心だって、疑いだしたらきりがない。だからって単純化してしまうと、大切なことが捨象されてしまうような気がする。だから、自分の立ち位置についてもすごく揺れ動きますよ。でも、そのジレンマは、自分で引き受けていかなくてはならない。
ーー反原発デモがありましたよね。するとメディアでは、「何万人が集まりました」というような報道のされかたをしました。つまり、「反原発のひとはこれだけいます」という数字だけが共有される。ところが現地に行ってみると、原発がある自治体のことを純粋に考えているひとたちがいる一方で、福島を穢れのように扱うプラカードを掲げたひとも残念ながらいました。いっけん同じようにみえる集団であっても、個別的にみていくとじつは違う。ただちに言い添えておくと、「個別的にみると違う」ということが重要なのではなく、個別的にみていくと違うものが同じものとして受容されてしまう可能性を、『DREAMLAND』は問いかけているように思いました。
水江 おもしろい解釈ですね。ちなみに、なぜそのように思ったのですか?
ーーそれというのも『DREAMLAND』では、前半はバラバラのユニットが調和的に動いていますが、後半は混沌とした運動が展開します。ひとつひとつのユニットは共通しているのに、編集次第でがらりと印象が変化してしまう。とはいえ、混沌とした後半にたいしても観ているうちに、前半の秩序とは異なる法則性のようなものが、ぼんやりとみえてくる。個と全体を同時にみつめるような経験のしかたを、『DREAMLAND』は触発してくれるようにかんじました。
水江 「個と全体を同時にみつめる」というのは、大切なことだと思います。僕もじっさいミャンマーに行くまで、頭ではわかっているつもりだったけれど、東南アジアを漠然とした塊としてしか認識していなかった。そのことをミャンマーに行って気づかされました。反省しましたね。ミャンマーのなかにもたくさんの民族が共生していて、身体的特徴も言語も違うんです。そのことを実感できたのは大きかったですね。
いまのは国単位の話でしたが、個人の価値観だってじつは混沌としていると思うんです。人生は選択の連続ですが、なにかを選ぶことが必ずしも、選ばなかった別の選択を完全に否定するわけではない。49%対51%みたいな葛藤のなかで選択することだってあります。そういう個々人の選択の積み重ねが、いまの社会をかたちづくっているという一面もある。だからこそときには、立ち止まって考えることが大切だと思うんです。そういう個人的にいま考えていることを反映して、『DREAMLAND』を制作しました。だからこそ、おっしゃっられたような解釈を引きだしたのかもしれない。
ーー『DREAMLAND』は、水江監督自身が日々の生活のなかで考えていることがインスピレーションになっているということですね。他方でドキュメンタリーのような描きかたはしませんね。個人的な世界観を核としながらも、それを脱構築して抽象化して語っている。だからこそ観客は、みずからの知覚や経験をよすがに想像するしかない。(『DREAMLAND』は)イマジネーションを喚起する触媒のような働きをしているのかもしれませんね。観客は、スクリーンに映しだされる色や形を受容すると同時に、その向こう側へのイマジネーションを媒介される。だから『DREAMLAND』は、ちょうど作中で「バベルの塔」を引用されていますが、神話的な構造ですよね。抽象化して語られているからこそ、誰しも自分の問題として考えることができる。抽象アニメーションならではの物語りかただと思いました。
水江 やっぱり、観客に作用するような創作をしたい、とは考えています。(アニメーションを)つくりはじめたころは、自分がいかに気持ちよくなれるかという快感原則でつくっていたと思います。でもキャリアを積み重ねていくうちに、それだけでは満足できなくなってきた。いまは(観客から)どういう受け止められかたをするのかすごく考えながらつくります。もちろん、思ったとおりの受け止められかたをするとはかぎらないわけですけれど。だからある種、祈りのようなものですよね。作品は、僕が死んだあともずっと残り続けるものなので。未来に少しでもポジティヴな影響を与える作品を残したい。ここで言うポジティヴは、現状をただ肯定するだけではないかもしれないけれど。『DREAMLAND』では人間の手を離れて残りつづけるものについて語りましたけれど、作品というのはまさに、そういうものですよね。でもそれは、けっしてネガティヴなことではなくて、希望でもあるのだと考えています。
(2018年5月16日、珈琲西武)
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